いきもの語り

江戸っ子は地震にナマズを見た 豊かな想像力 悲喜こもごも描く

地震を鎮める石として信仰されている要石とナマズを描いた「鯰と要石」(大屋書房提供)
地震を鎮める石として信仰されている要石とナマズを描いた「鯰と要石」(大屋書房提供)

大正12(1923)年に発生し、壊滅的な被害をもたらした関東大震災から今年で100年の節目を迎える。関東地方には、日本各地と同様に、多くの活断層やプレートの境界が存在し、人々は周期的に大規模な地震に見舞われてきた。地震のメカニズムが科学的に解明される以前、人々は、そういった天災をある生き物に仮託し、豊かな想像力で悲喜こもごもの感情を描いてきた。

安政2(1855)年、旧暦10月2日夜、江戸市中を猛烈な揺れが襲った。「安政江戸地震」だ。マグニチュード(M)は7前後、最大震度は6強と推定される首都直下地震。現在の東京都千代田区や墨田区、江東区などを中心に、家屋倒壊や火災など甚大な被害が生じた。死者は約1万人程度とみられている。

当時は嘉永6(1853)年の黒船来航に始まる「鎖国」政策の転換期だった。すでに動揺が始まっていた社会に、地震が追い打ちをかけた形だった。そんな時代に生きていた江戸っ子の心に刺さったのは、地震を巡る民間信仰だった。

× × ×

ナマズを抑える鹿島明神が留守だったため、地震が起こった-。

鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)には、境内で地中深く埋まる要石(かなめいし)が地下で大ナマズを押さえこみ、地震を防いでいる、との言い伝えがある。発災が旧暦10月、つまり神々が出雲に集まる「神無月」だったため、鹿島明神の不在中にナマズが暴れた、というストーリーに沿って、ナマズを描いた錦絵(鯰絵)が大量に刷られると、飛ぶように売れた。当時、幕府から正規の許可を受けない出版物は取り締まりの対象だった。それでも、数百点もの無許可の鯰絵が発災からわずか2カ月程度で、流通したという。

江戸時代の錦絵に詳しい神保町の古書店、大屋書房の纐纈(こうけつ)くりさんは「発災時、足をけがしていたある絵師が『これは(鯰絵が)売れる』という版元に誘われて、走って作業場に向かった、という話も残っているんですよ」と話す。

× × ×

鯰絵はバリエーション豊かだ。

一つは、鹿島明神に対しナマズが平身低頭でわびる様子を描いた「地震太平記」や、神馬がナマズを蹴散らす様子を描いたものなど、厄災をもたらしたナマズへの怒りが読み取れるものだ。平穏な日常を一瞬で奪い去られた理不尽さを、錦絵を通じて解消しようとしたのだろうか。

ただ、決してそれだけではない。

「ほね抜どぞう なまづおなんぎ大家場焼」と題された鯰絵は、描かれたセリフなどを読み解くと、決して悲しみだけでなかったことがよくわかる。

絵師が「へゝゝゝ、ありがとうござります」と語り、それを受けた板元(版元)は「こんどのいつけんですこしはかくこともあろう」と応じる。そして、店内では復興で潤った職人らがナマズのかば焼きに舌鼓を打つ。彼らが繰り出したであろう吉原の遊女もあわせて描かれている。

また「鯰への見舞い」では医者に診察されるナマズに、とび職らが駆け付けた様子を描く。地震特需に沸いた人々の姿も、何も隠すことなく描いている。

× × ×

こうした鯰絵は単なる娯楽ではなく、護符やまじない的な要素もあったという。庶民らは壁などに貼ったり、持ち歩くなどし、災害がないことを願った。感染症の流行にも、絵の力を頼り、対抗しようとした。

そうした風潮は、日本社会の底流にしっかり受け継がれているようだ。新型コロナウイルス禍では、疫病をはらうとされる妖怪「アマビエ」のイラストを公開する動きがSNSを中心に広がったことは記憶に新しい。

いつ起きるか分からない地震への備えは大切だ。その上で、非常食などをまとめた荷物に、1枚の「鯰絵」を忍ばせてみてもいいのではないか。非科学的な振る舞いだと言われるかもしれない。とはいえ、そうやって一蹴するにはあまりに惜しい豊かな文化だ。(中村雅和)

会員限定記事会員サービス詳細