あの日の取材、刻まれた思い 雲仙・普賢岳火砕流30年 本紙元記者が振り返る

雲仙・普賢岳(長崎県)で発生した大火砕流=平成3年6月3日
雲仙・普賢岳(長崎県)で発生した大火砕流=平成3年6月3日

降り注ぐ火山灰が辺りを黒く染めていく。谷筋の杉林は川下に向かってなぎ倒され、白いモヤのようなものを漂わせる-。長崎県の雲仙・普賢岳の火砕流惨事から3日で30年を迎える。焦げ臭いにおい、熱い空気、そしてあちこちで燃えている家屋…。そうした光景よりも深く胸に刻まれたのは、報道各社の取材活動に関連して亡くなった多くの人々がいたこと。あの経験はその後の記者としての行動原理に大きなインパクトを与えた。

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同県島原市に入ったのは平成3(1991)年5月。入社4年目の社会部記者として、土石流を取材するのが目的だった。やがて目的は、火口に形成された溶岩ドームへ、火砕流へと移った。現場の専門家から初めて聞いたときは、メモ帳に誤って「火災流」と書いたことを覚えている。

溶岩ドームから東へ約4キロ離れた高台にあった報道各社の取材拠点「定点」には何度も行った。そこから見た山は雄大で、そのスケール感の中で、火砕流はスローモーションのように、ゆっくり動いているように感じていた。

5月29日、それまでで最大規模の火砕流が発生。煙を巻き上げながら、斜面を下ってくるのを定点で見ていた。傾斜は次第に緩やかになり、その先は木々が茂った小高い丘のようになっていた。「あの丘を越えてくることはないだろう」。なんとなく、そう思っていた。

しかし、越えた。報道各社がチャーターしていたタクシーは狭い道で動けず、クラクションが鳴り響く。溝に足を取られて転倒するカメラマンもいた。私も山を下りようと走り出した。が、火砕流は定点には到達しなかった。「やはりここまでは来ない」。そう思い込んでしまったのは私だけではなかったのではないか。

6月3日に発生した大火砕流では、この定点周辺で多くの報道関係者らが犠牲となった。私は当日、市役所の廊下の長机で、土石流に備えるための土囊(どのう)積みの様子を原稿にしていた。窓の外が急に暗くなった。ただ事ではない。カメラマンと2人、車で現場に向かい、冒頭の光景に遭遇したのだ。

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