写真は語る 雲仙・普賢岳噴火災害<2> マイナスからの復興

2021/05/25 [23:35] 公開

火砕流にのみ込まれた吉田さんの自宅と農業ハウスの跡

 「お父さん、ちょっと来て。これまでの火砕流と違うみたい」。1991年6月3日午後4時すぎ、長崎県島原市白谷町の水無川に近い自宅の2階から妻に呼ばれ、跳び起きた。
 消防団の警戒当番の後、農業用ハウスでキクの世話を終え、ようやく横になったところだった。外を見ると、霧かもやに包まれた雲仙・普賢岳から「ゴォゴォ」と不気味な音が響き、木々をなぎ倒すような「バリバリ」という音と共に濃い灰色の煙の塊が迫ってきている。一気に目が覚めた。「火砕流にのまれるぞ!」と叫んでいた。
 消防団の羽織をまとい、妻と当時1歳の長女、両親を車に乗せ、下の方へ走らせた。この日の大火砕流は自宅まで到達しなかったが、8日の火砕流に自宅と約40アールのハウスがのみ込まれた。
 10月下旬から数回、自宅があった場所を訪れた。写真は11月7日に撮った1枚。残ったのはハウスの骨組みと倉庫のコンクリート壁だけ。倉庫の左にあった木造の自宅は跡形もなし。覚悟はしていた。それでも、その場に立つと「本当に家があった場所なのか」とがくぜんとした。
 キクの生産拡大を進めていたときに自宅もハウスも失い、約2千万円の借金だけが残った。雲仙市吾妻町に移り住んでキク栽培を継続し、この春、黄綬褒章をいただいた。巡り合わせで生き残り、マイナスからの再出発。亡くなった方々の分まで頑張り、復興しようと懸命に生きてきて、今がある。